2020年01月20日

高木守道氏逝去

 中日ドラゴンズ OB の高木守道さんが急逝された。驚いたのは、突如として高木さんを讃える記事が怒涛のように公開されていること。高木さんが二度目に監督をやっていたとき、みんなけっこうボロクソに言ってなかったか? 「1年目に2位になれたのは落合前監督の遺産で、2年目はやっぱりダメだった」みたいな声ばかり聞こえていたような気がする。

 おそらくは、自分の見ていた情報が偏っていたのだろう。私は「落合監督をやめさせてドラゴンズの生え抜き OB で首脳陣を固めた」という親会社(中日新聞社)のやり方がすこぶる気に入らなかったので、高木監督にもいい印象を持っていなかったのだと思う。高木監督が掲げていた「Join us」というスローガンも、ファンサービスに不熱心だった落合前監督に対する当てつけとしか思えなかった。ここ数日の高木さんに関する記事を読んで、ドラゴンズの生え抜き OB の中では数少ない「落合監督の理解者」だったことなどを知って、今更ながら認識を改めた。

 高木さんの現役時代は一応知ってはいるし、「燃えよドラゴンズ」の最初のバージョンが「一番高木が塁に出て」なのももちろん知っていた。ただ、Wikipedia に書かれている「二塁手としての守備記録は NPB 歴代トップ」というのはびっくりした。そこまでの人だとは知らなかった。掛布さんも落合さんも「歴代最高の二塁手は高木守道」と言ってるんですってね。そうだったんだ…

 なんだか、高木さんのことをもっと早く、詳しく知っておきたかったな、と今更のように思っています。ご冥福をお祈りします。

タグ:野球
posted by toshinagata at 00:15| 日記

2020年01月15日

二重根号がバツになる世界

 坊の数学の問題を一緒に解いているとき、二重根号が出てきそうになったら「あ、これたぶんアカンやつや」と方針転換するようにしている。やっぱりアカンやつやった、という証言が得られました。

 たぶん正解は 2√6 + 2√2 なんでしょう。しかしながら、「何の注意書きもなく」この答えを求めているのだったら、当然数学的に等価な 4√(2 + √3) も正解にしないといけない。出題者が「二重根号は必ず完全平方に変換して開くこと」を要求するのであれば、問題文にそのことを明示しないといけない。たとえば、「根号の中は有理数のみを含む形で答えること」と指示があるなら、二重根号で答えたものをバツにしても構わない。そのような指示をしていないのに、「二重根号は習ってないからバツ」みたいな不合理なことを言ってはいけません。

 上記の「職員室の数学の先生」たちは、「二重根号が出てこないように解く方法を探す」ことに一定の意義を見出しているのでしょう。それは構わない。でも、何も言ってないのにその制約を「暗黙の了解として」受け入れるべき、というのは、教育上好ましい姿勢とは言えないでしょう。理由が説明できないアホな校則を墨守するのが好ましくないのと同様です。中学校という世界には、根本的に変わらないといけない面が多々あるんじゃないでしょうか。

 これに対して、こんなリプライが飛んできたそうです。大炎上必至。

 「大学受験でもほとんどの学校が採用しています」って、そんなワケないでしょう。出題するときに「高校で学習した範囲で解答できるように作成する」のは基本ですが、解答するときは、どんな方法であっても「正しければ」当然マルになります。ここで、「正しければ」というのは、「結論が合っていれば」という意味じゃないですよ。「論理的に正しければ」という意味です。出題者に対する制約と、解答者に対する制約を、混同してはいけません。

タグ:教育 社会
posted by toshinagata at 21:03| 日記

2020年01月12日

映画「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」

 妻・ヒメと3人で見てきました。前作も、終了後しばらく立ち上がれないぐらい感動したのだけど、今回はそれを上回った…

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出典:eiga.com、「ポスター画像」 https://eiga.com/movie/89537/photo/

 前作は、呉に嫁入りしたすずさんが、小姑の径子との関係に悩みながらも、周りの優しい人たちに支えられながら生きていく、というストーリーだった。今回は、前作で一瞬しか登場しなかったリンさんが主要人物の一人として重要な役割を果たす。その結果、すずさんの生き方は、前作とは全く色合いが違って、深い奥行きを持つものになっている。夫・周作との心理的な関係も複雑になる。幼馴染の水原が訪ねてくるエピソードも、前作とは意味合いが全然違う。

 テルちゃんとのシーンが本当に印象的です。このシーンは、原作漫画でもとても印象深い。短い場面にいろいろな思いが込められている。九州から呉に出て遊女として働き、体を壊して辛いのに、なお他人への情を失わない。すずさんは南の島の絵を雪に描いてやり、テルちゃんはそれを見て「ずっと笑っていた」。

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出典:eiga.com、「本編映像:テル登場シーン」 https://eiga.com/movie/89537/

 このシーンでの、すずさんのリンさんへの思いは、すごく複雑です。リンさんは友達でもある、と同時に「ライバル」でもある。りんどうのお茶碗のことを、すずさんは「私のものではない」と感じている。しかし、それをリンさんに届けに行く、というのはどういう思いなのだろうか。そこは想像で埋めるしかない。この「観客(読者)の想像に委ねる」という作り方は、原作のこうの史代さんと、映画の片渕監督に、共通するアプローチではないかと思う。

 桜の場面で、すずさんはリンさんからテルちゃんの口紅を託される。この口紅は、周作が海軍に出発するときに口に塗ったり、空襲の場面で砲弾に打ち砕かれたり、そのあとの回想シーンで(失われた右手とともに)絵を描く道具として現れたりするのだが、この場面は前作ではどう描いてあったのか、気になってしまった。特に何の意味もなく、口紅として登場してたのかなあ。本作を見てしまうと(あるいは原作漫画を読んでしまうと)、それが「リンさんから託されたテルちゃんの形見」であることの意味はとてつもなく大きいと感じられてしまう。

 168分の長尺だけど、長いとは全く感じなかった。この作品が完成して、世に公開されたことに感謝したい。

タグ:映画
posted by toshinagata at 13:32| 日記

2020年01月11日

河村尚子さんのベートーヴェン

 新聞の「新譜」のところで見つけて、即買いました。新譜は Vol.2 だったので、Vol.1 も一緒に。

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 Vol.1 は No.4, No.7, No.8(悲愴), No.14(月光)。Vol.2 は No.18, No. 21(ワルトシュタイン), No.23(熱情), No.24(テレーゼ)。有名どころを2曲ずつ入れて、残り2曲がなかなかに渋い選択です。

 とりあえず Vol.2 を先に聴いてます。No.18, No.21 はとにかく「切れ味の良さ」を追求しているように感じた。ノンレガートがとても印象的。もともと、No.21 と No.23 は中期ソナタの「2大巨頭」としての存在感があるためか、No.21 は「重厚さ」のイメージが自分の中では先行していた。しかしこの演奏では、特に第1楽章はペダルをほとんど使わない、軽やかな味わいになっている。一方、序奏+ロンドの第2楽章は、ペダルをたっぷり使って響きを残している。といっても、ピアノを全部鳴らし切るような演奏じゃなくって、どこか余力を残しているような音使いだった。

 考えてみると、これと同じプログラムで河村さんはコンサートをやっていたわけだ。後半の No.23 にクライマックスを持っていこうと思うと、前半の No.21 であんまり力一杯鳴らしてしまうと聴き手は疲れてしまうかもしれない。そういうことも想定した上でのこの表現だったのかもしれないな。

 後半の「テレーゼ」。これは第2楽章が独特ですね。河村さん自身がライナーノートのインタビューで語ったところによると、「装飾音符的に弾いた」とのこと。これはツェルニーの残したコメントによるもので、過去の録音ではシュナーベルの弾き方が近いそうです。こんな表現あるんだな、と思った。楽譜にするとこんな感じ。

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 「熱情」はわりとオーソドックスな解釈だった。といっても、情熱に任せて弾き散らすのではなく、どちらかというと熱を内に秘めているような演奏。技術的におお、と思ったのは、第2楽章。細かいところだけど、5小節の sfp がきっちり sfp になってるんですね。どうやってるんだろう。ハーフペダルで音を削っているのかな。

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 同じ第2楽章の第3変奏がきっちりインテンポなのも印象に残った。つい速く弾きたくなるところなんだけどね。

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タグ:音楽
posted by toshinagata at 00:19| 日記

2020年01月03日

プロコフィエフのピアノソナタ6:第4楽章

 プロコフィエフのピアノソナタ第6番第4楽章、DTM でやってみました。

 実はこの年末は精神的に相当参っていた。なんとかして気力を呼び起こさないと、どこまでも気持ちが沈んでいきそうだった。人に会いたくなかったので、義実家・実家への帰省をキャンセルして、この曲を打ち込んでいました。だいぶ気持ちが持ち直してきたと思う。

 この曲には、弾きにくいところがいろいろある。中でも筆頭は、最後の2ページぐらいでひたすら続く、このフレーズだろう。(譜例は IMSLP 掲載の Kalmus 版による。以下同様。)

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 音楽というより、もはやただの音響効果みたいになっている。手を大きく広げた状態で、厳しく鍵盤を叩き続ける。がちゃがちゃした騒音の中から、アクセントの三連符が浮き出て聞こえないといけない。これが21小節間続いた後、ファンファーレのようなこのフレーズ。両手とも単音で、fff を出せと?!

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 最後の2小節もめっちゃ弾きにくいですよね。両腕をいっぱいに広げて ff。体重を乗せることが難しい。体が小さいピアニストには鬼門だよなあ。

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 DTM では「弾きにくさ」は関係ないけど、その代わり「音が鳴り切らない」のが不満のタネになる。ペダルを踏んでも、安い音源だと単に音が長くなるだけだから、「響き」がプラスされない。とはいえ、いい音源を追い求めるとどんどん深みにはまってしまうので、おいそれとは手を出せません。身の丈にあったところで楽しむしかないですね。

 今回は「ヴェロシティのレンジをなるべく広く使う」というのをテーマにしてみた。だいたい、制作したものをあとから聴くと平板に感じることが多いので、これを何とか打破できないかと。冒頭の p はヴェロシティ 40 ぐらい、最後の ff は 120〜126 です。あんまりダイナミックレンジが大きすぎると不自然になる。どれぐらいが許容範囲なのか、まだまだ研究が必要です。

タグ:音楽 DTM
posted by toshinagata at 14:47| 日記
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