2019年02月09日

叔父の葬式を出した

 前回のエントリを書いて、就寝した後、夜中の1時半ごろに病院からの電話で起こされた。叔父(母の弟)が去年の12月から入院していて、一番近くに住んでいる自分が対応してきたのだが、容態が急変して朝まで持たないかも、と。交通機関がないため、タクシーで病院へ。残念ながら、数分の差で間に合わなかった。

 人が亡くなると、すぐに葬儀屋さんに連絡して、葬儀の手配をしないといけない。家で寝ずに待機してくれていた妻に少し調べてもらって、葬儀屋さんを決め、遺体の引き取りの段取りをつけた。

 あとで到着した主治医の先生に死体検案書を書いてもらった。最期の状況の記録から見て、急速に意識が遠のいていったはずだから、痛み・苦しみはほとんどなかっただろう、とのこと。実は、前日の夕方に先生と面談した時に、施設に入居している奥さんについて「会わせるなら今ですよ」とアドバイスを受けて、その足で施設に迎えに行って面会してもらったところだった。会わせておいてよかった…

 遺体はとりあえず自宅に戻して、安置してもらった。すぐに葬儀の打ち合わせに入る。葬儀屋さんは「葬儀場でちゃんとしたお葬式をあげる」方向に誘導しようとするのだが、こちらはきっぱりと「家族だけであげたい」方針を伝える。だって、80歳超えてるんだよ。そんなに人こないよ。(なお、葬儀屋さんの誘導にもちゃんと理由はあって、家族葬にした場合に、故人の知人が後で「弔意を伝えたかったのに」と不満を感じるケースがよくあるらしい。)

 結局、葬儀場の和室を借り切って、そこで私的なお通夜を行った。お坊さんは呼ばず、知人親戚で故人の思い出を語った。翌日、出棺前にお坊さんに来ていただいて、お経を上げてもらった。八事斎場で荼毘に付し、そのまま解散。久しぶりに会った親族同士でたくさん話をして、いい時間を持てた。

 実は本業の方が「一年で一番大変な時期」に重なってしまったのだが、同僚の人たちも気持ちよく休みをとらせてくれたし、妻がずいぶん動いてくれたので、なんとか無事にすませられました。みんなありがとう。

posted by toshinagata at 23:26| 日記

2019年02月02日

LÖVE (Love2D) プログラム:空飛ぶサイ

 「LÖVE サンプルプログラム集」に1つ追加しました。「空飛ぶサイ」。なんでサイが空飛ぶねん。

 YouTube のコメントにも書きましたが、飛んでくる野菜を食べるゲームだからね、よけるゲームとちゃうからね。自分で見ても、下手すぎて笑ってしまう。うちの家族が、以前出した「さかなは踊る」の動画を見て「ヘタすぎ!」と大笑いしていたらしい。いや、あんまりウマすぎても可愛げがないやろ、しょぼいゲームにはしょぼいプレイ動画がお似合いなんや、と負け惜しみを言ってみたりする。

 おバカなゲームの割には、制作に一週間ぐらいかかってしまった。「さめがめ」のアニメーションの時もそうだったけど、状態遷移が今ひとつスマートに書けてないんだな。やたらとグローバル変数が増殖してしまう。

posted by toshinagata at 22:53| 日記

2019年01月25日

999人が読めない山月記

 「文章を読めない子供たち」で知られる新井先生のツイートに、脊髄反射している人が多々おられるようで。

 このツイートに出てくる「999人が読めない『山月記』を死守している」という表現が、前後の文脈なしではわかりにくい。「『山月記』を公教育で取り扱う理由として、その教育を受けた中から1000人に1人ぐらい次の文学を生む可能性がある、という主張は不適切だと(新井先生は)思っている」という文脈で出てきている文章です。

 上のツイートだけ取り出すと、「山月記を999人が読めないってどういうこと?」とまず思いますよね。「読めない」という表現が、なんとも粗雑に使われている。だから、こういう大事な話を、ツイッターみたいな雑なプラットフォームでやっちゃだめなんですよ。前後の文脈が切り取られないように、ちゃんとまとまった記事として書かないと。もしかしたら、わざと煽るような書き方をすることで話題作りを狙ったのかもしれないけど、それはそれでとても不誠実なやり方だと思う。

 国語の先生方には、「山月記は読めるだろ」と芸のないツッコミ(というよりほとんど揚げ足取り)をするんじゃなくて、「山月記」を公教育で取り扱う必然性をしっかり考えて、上記の新井先生の言説に真っ向から反論してもらわないといけないと思います。いくつかのツイートでほのめかされていたように、受験勉強に邁進しているエリート学生は、この小説に出会って「はっ」とすることがあるのかもしれない。(そういえば、高校の時の国語の副読本に「読書感想文の書き方」みたいな項目があって、良い感想文の書き出しの例として「私もまた隴西の李徴ではないか−こう読後に思わずひとりごちた。」という類の文章があった。いろいろな意味で「うわぁ…」と思ったのを覚えている。)仮にそれが教育的効果を持つとしても、かなり少数の人に対してのものですよね。そうだとすれば、別に教科書に載せる必要はないんじゃないか。同じ著者の作品を取り上げるにしても、「名人伝」とか「文字禍」の方が面白いんじゃないか。…等々、こういう議論を真剣にしていっていただきたいな、と思うわけです。そうでないと、「山月記なんて読ませなくていい、その代わりにもっと実用的な文章を読ませよう」というような暴論が大手を振ってまかり通ってしまう。それはどうにもまずいと思う。

タグ:教育 社会
posted by toshinagata at 23:15| 日記
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