2019年01月25日

999人が読めない山月記

 「文章を読めない子供たち」で知られる新井先生のツイートに、脊髄反射している人が多々おられるようで。

 このツイートに出てくる「999人が読めない『山月記』を死守している」という表現が、前後の文脈なしではわかりにくい。「『山月記』を公教育で取り扱う理由として、その教育を受けた中から1000人に1人ぐらい次の文学を生む可能性がある、という主張は不適切だと(新井先生は)思っている」という文脈で出てきている文章です。

 上のツイートだけ取り出すと、「山月記を999人が読めないってどういうこと?」とまず思いますよね。「読めない」という表現が、なんとも粗雑に使われている。だから、こういう大事な話を、ツイッターみたいな雑なプラットフォームでやっちゃだめなんですよ。前後の文脈が切り取られないように、ちゃんとまとまった記事として書かないと。もしかしたら、わざと煽るような書き方をすることで話題作りを狙ったのかもしれないけど、それはそれでとても不誠実なやり方だと思う。

 国語の先生方には、「山月記は読めるだろ」と芸のないツッコミ(というよりほとんど揚げ足取り)をするんじゃなくて、「山月記」を公教育で取り扱う必然性をしっかり考えて、上記の新井先生の言説に真っ向から反論してもらわないといけないと思います。いくつかのツイートでほのめかされていたように、受験勉強に邁進しているエリート学生は、この小説に出会って「はっ」とすることがあるのかもしれない。(そういえば、高校の時の国語の副読本に「読書感想文の書き方」みたいな項目があって、良い感想文の書き出しの例として「私もまた隴西の李徴ではないか−こう読後に思わずひとりごちた。」という類の文章があった。いろいろな意味で「うわぁ…」と思ったのを覚えている。)仮にそれが教育的効果を持つとしても、かなり少数の人に対してのものですよね。そうだとすれば、別に教科書に載せる必要はないんじゃないか。同じ著者の作品を取り上げるにしても、「名人伝」とか「文字禍」の方が面白いんじゃないか。…等々、こういう議論を真剣にしていっていただきたいな、と思うわけです。そうでないと、「山月記なんて読ませなくていい、その代わりにもっと実用的な文章を読ませよう」というような暴論が大手を振ってまかり通ってしまう。それはどうにもまずいと思う。

タグ:教育 社会
posted by toshinagata at 23:15| 日記
email.png
Powered by さくらのブログ